ルーチンな毎日の柵を飛び越えろ。刺激的な夜さんぽwith大トラワイフ。「杉山商店」→「やまじ」→「島」篇

大トラ女子と結婚して3年目のハズバンドです。ワイフは酒場に関する情報収集力はハンパない情熱を発揮しますが、いまだにボキの誕生日を覚えません。もっと言えば結婚記念日も毎年、「いつだっけ?」と聞いてきます。あらゆるアニバーサリーに無関心で、たまにじぶんでじぶんの誕生日も忘れ、あとで気がつき猛烈に怒っています。脳内地図は酒場マップで出来ており、年間スケジュールは酒場探訪で構成されている、そんなワイフとボキのはしご酒。

夜からスタート
黄色い総武線と、地下鉄東西線と大江戸線が乗り入れる飯田橋。

ちょっと歩けば、花街神楽坂に至るプチターミナル駅でありながら、この町にはつかみどころのないオモシロさがある。昭和のかおり漂う古い長屋ビルの中には、立ち食いのホルモン屋に毎夜賑わう焼鳥屋。オフィスビルもあるが、大通りからはずれると急な坂が始まり、“丘”に向かう途中にも面白そうな洋食屋や、小さな縄のれんが点在する。珍しく仕事が早く終わり、ワイフとの待ち合わせより一歩早く到着したボキは、町を鼻歌まじりに散歩する。ああひとりっていいな……。独身時代、週末はこうして町をあてもなくぷらぷらするのが至極の楽しみだったっけ。朝起きてから会社に行き、同僚とメシを食い、上司と酒を飲んで、トラの住処に帰るしかないボキにはぼっちの時間がない。目には見えない柵の中を行ったり来たりしているような気になることもぶっちゃけ、ある。
おとなのコンビニ風角打ち。時々鈴虫も鳴いてマス。「杉山商店」

待ち合わせの高架下にいると、「よお」とワイフが背後から声をかけてきた。ぎょっとする。もう少し、可愛い感じで登場できないのだろうか。「今日は目白通り沿いの角打ちで0次会だ」。0次会って。いったいどれだけ行くつもりなのだ。 「杉山商店」は、おとなのコンビニのような賑わいだった。ここで飲みたいんですがと言うと、「ええ?」とものすごい大きな声で主人が聞きかえす。「や、と、あの…」とうろたえていると、「ああ飲むのね。なら奥に行って」。ワイフが言う。「いぶし銀の主人がいる店では滑舌よくしゃべれ。怒ってるんじゃないんだ。聞こえてないんだ」ああ、そうか……。

夜の大人が集う“コンビニサロン”には、冷蔵庫や陳列棚の隙間など、ところどころに立ち飲める台が設置され、コップ酒やサワー、缶ビールなどを皆おのおの好きなものを飲んでいる。ルールが書かれた紙を見ると、各自、お酒プラスおつまみ、あるいはおつまみ2品を頼むことが、ここで立ち飲む条件のようだ。一番奥の壁際に立つ。その超奥まったところに厨房がある。おばちゃんが、「何にします」とにこにこ聞いて来る。牛すじの煮込みや、煮物、さつま揚げなど、200円前後のささやかなおふくろ料理が品書きに並ぶ。飲み物は、アサヒスーパードライ300円、コップ酒180円、ウーロン茶割り280円もある。

生ビールとおひたしとワカサギのフライを注文する。小皿にぴちっと整列したワカサギの姿がかわいらしい。ボディは小さいが、からっと揚がったうす衣に柔らかい白身がふっくらとしている。あたまからまるごと食べる。旨い。隣では、前に後ろに揺れながらおじさん二人組が日本酒を飲んでいた。「冷蔵庫に入っている缶ビール類は買って飲めるのか、おじさんに聞くべし」とワイフがせっつく。「あのう、ここのルールについて質問なんですけど」とボキが言うと、おじさんの一人が「るうるだあ〜」と赤い顔でこちらを一点ぎろりと見る。「るうるーなんてのはだなあ……」。しょっぱなから怪しい雲行きになってしまったではないか。ルールなんてややこしい言葉を出すからだとワイフが小声で言う。

「見ろ、みるからにアンチルールな顔をしてるおっさんじゃないか」。ワイフが言うには、酒場での交流は、まずアイコンタクト、そこからトークを盗み聞き乗っかれそうな話題になったら朗らかな笑顔で相づちをうつなどしてカットイン、警戒心を解いたところで、相手をかるく褒め(お酒お強いですね、とか、そのつまみ旨そうですね、とか)、そこからやっとコミュニケーションが始まる、らしい。まるで詐欺師の作法のようだ。

「酒場では人対人、などと思うなよ。動物対動物だ。ここは野生の王国だ。目を合わす、そこからが群れにまぜてもらえるのか、後ろ足で砂をかけられるかが決まるんだ。しかし下手に出ればいいってもんでもない。アフリカの大草原で、弱っちい小動物がチータに媚びたところで対話になると思うか。お前ごときがわしに話しかけるなと逆にプライドを傷つけることにもなる。時には凛としたヌーくらいの態度でなくては相手にされない」

ボキはマニュアル大好き人間だ。企画書でもなんでも、型通りに誠実にすすめたい。型が通用しない相手はきらいだ。よって隙のないプランをつくり、隙のない業務態度で人からつっこまれないように生きていくのが正しいと思う。しかし野生の王国では、そんなことは通用しないのだそうだ。真っ赤な顔したくだんのおじさんは、毎日仕事帰りにここで4〜5杯飲んでから帰るのがきまりなのだそうだ。二人は近所の仲良しコンビらしい。そこまで聞き出し、ようやく冷蔵庫の中にあるお酒は、品書きにある酒やつまみを注文したのちは、買って飲むことができると教えてくれた。おじさんたちは完全に出来上がった顔でご機嫌に去って行った。ひょっとしたら、彼らにも“柵”があって、そこから脱出できる唯一の時間がここなのかもしれない……。そう思うと、なんだかボキは気が遠くなってしまった。

店主曰く、「うちは半世紀以上やってるけど、まだまだこのへんじゃ若いほうだよ。ずっと酒屋ってわけじゃなくてふつうの商店だった時代もあるし、今も昼間はほれ、お弁当売ってるの。うちの弁当はご飯がいっぱい入ってるから人気よ」と言う。レンジもある。弁当を持ってみると確かにずしっとした。一人暮らしならば、ここで一杯飲みながら弁当を食べるのも楽しいだろう、と妄想する。店内には酒の瓶の横に鈴虫のかごが置かれていた。「私、東久留米の出身なのよ。子どもの頃は家の裏でよ〜く鳴いてたもんよ」。野生な飲んべえのなかで、鈴虫が息づく一角だけが清らかだ。きっと鈴虫を愛する店主のハートも清らかに違いない。ハッと振り向くと、ワイフが「鳴け、鳴け」とかごに向かって小声で威嚇していた。鈴虫は、ちろりとも鳴かなかった。
怖いが旨い。旨いが怖い。刺激的な洞窟的立飲み。「やまじ」

ボキは密かに話題の不倫ドラマ「昼顔」を、夜中に「気ままにYouTube」で観るのが最近の楽しみだった。感情移入しているのは、既婚ながら上戸彩演じる主婦に惹かれて行く高校教師役、斎藤工だ。ゆるふわパーマの髪型だけはちょっと似ていると思っている(へへへ)。 飯田橋の高架下、電車の音が響く真下で、「近頃、刺激が足りなそうだな」とワイフが言うのでどきりとした。「刺激的な店に行くか」そう言って向かったのは、古いビルの一角にある立ち飲み屋だ

彼女は数年前に一度ここへ来たというがその記憶は曖昧だ。ただ、説明できないおっかなさがある、とだけ言った。『立呑み屋で〜す』というフレンドリーな黒板が外にあったが、一歩足を踏み込むと確かに説明できないおっかなさ…があった。

小さなL字カウンターに飴色に染まった壁と厨房と床と生活用品に茶色くなったちらしなどなど。それでも10周年は迎えたらしい。年季というより異次元の洞窟。その上、厨房の中にいる二人は眉をひそめた感じで無言で調理をする。メニューは創作料理風だが、いかんせん二人の顔が怖い。ビールと秋刀魚を頼んだ。ワイフは完全に借りてきた猫状態で、珍しくボキのひじを掴んではなさない。や、やめろ、仲良しみたいに見えるだろ!

BGMはラジオだった。野球の試合だ。巨人対ヤクルト戦。巨人が点を取るたび、ヒゲにマスクをひっかけたマスターの眉間のしわが深くなる。ヤクルトファンなんだ……。ああ、秋刀魚やっぱ大丈夫です! と言って帰りたくなるのをこらえてじっと待った。ラジオではまたヤクルトが点を取られた。店主が怒気を含んだような咳払いをするたびびくついた。ヤクルト打て…と念じるうち魚を焼いていたオーブンがやっと開いた。でっかい秋刀魚が出てきた。すごい立派だよと大げさに感激してみせるボキに、店主が、「350円になります」とキャッシュオンシステムを薮から棒に主張する。すいません、と謝りながらお金を払う。

秋刀魚は、信じられないほど肉厚で新鮮で旨かった。新さんまに偽りなし。スーパーでは一尾200円以上するこの時期に300円台で出すとは立派だ……と言いながら「苦いとこはわしのものだ」とわたを一人で食べるワイフ。ナイターではまた巨人が点を取ったようだ。マスターがぶつぶつと怖い顔で何かつぶやいている。秋刀魚を食べ終わる頃、ヤクルトの敗北が決定した。店を出たあと、ワイフが言う。「あの店は洞窟のまま放置しているために、正しい評価を得られずじまいだ。その上、ヤクルトが負けるたびにますます評価を下げるというすごいループだ」。旨いのに怖い。怖いけど旨い。しかし他の追随を許さない刺激的スポットであることは確かだった。「今度はヤクルトの調子が絶好調の夜に来るべし」「べし」と言いながら、ボキはさっきまで引きずっていた閉塞感を不思議なことに忘れていた。
置かれた場所で咲いてます、老舗沖縄家庭料理。「島」

3軒目は、小高い坂の途中にあった。小さな沖縄料理屋さん。洞窟から一変、陽がさんさんと降り注ぐ丘の上にジェットで飛んできたような気分だ。昭和37年創業という、沖縄家庭料理の先駆者だ。

「タコミート皿そば」には『蛸は入っていません』。そのかわりに厚切りのポークハムが入り太めの沖縄麺といい具合にからみ合う。ピーマンの苦みもまたいい。口の中でぷつりぷつりと弾ける生の海ぶどうには島の風さえ感じる。

ワイフが初の「ヂーマミ」(地豆豆腐)を食べたいと言う。夫婦揃って豆腐好きだ。「落花生の豆腐ってどんな感じなんだろう」。箸を入れると、思った以上に弾力があって嬉しくなる。木綿でも絹でもなく、なんともコクの深いクッションだ。この豆腐も沖縄麺も自家製だ。父さんと母さんと娘さん家族で切り盛りしながら、昔ながらの島の味を再現し続けている。

ボキやワイフがこれまで沖縄料理と思っていたのと、まったく違うものもあった。衝撃だったのはミミガーだ。ここでは「ミミーガー」と言う。濃厚な和え物のような一皿。母さんに聞くと、「胡麻とピーナッツで合えてるの」らしい。豚のミミとピーナッツのマリアージュだなんて。ミミガーと言えば、下味をつけたボイルされたものが一般的だ。こちらのミミーガーは、キュウリと大根とナンコツを同時に噛み締めると、ナッツの香ばしさと小気味良い素敵なぽりぽり音が口中に広がる。旨し!

オリオンビール(530円)とシークァーサーサワー(650円)を飲みながら、元気のいい娘さんにワイフが話しかける。「沖縄からいつ来たんですか」「私はずっと東京なんですよ」。なんと、両親の「味」だけは沖縄を知らない子へも確かに伝承されているのだ。

東京には地方の郷土料理も、異国のレストランも、酒場もうなるほどある。流行ってる店があると、皆こぞってそこを真似ようと骨を折る。新しい挑戦を常に続けていくのが正しいと教えられる。けど、ワイフが言う。「『置かれた場所で咲きなさい』なんて、なんて守りの題名だって思ってたけど案外いい言葉かもな」。昨今、ベストセラーで話題になった渡辺和子というおばあちゃんが書いた本だ。じぶんにはあっちの生き方のほうが似合ってるんじゃないかとか、もっと魅力的な暮らしができるんじゃないかとか、こころはいつだって浮気な心と背中合わせだ。

「ミミーガー、全部食べちゃダメだよ。もう一杯飲むんだから」とワイフが泡盛を頼む。どんな縁あって、沖縄一家が東京に店を構えたのかはわからない。沖縄が恋しい日もあったろうし、娘さんに至っては、どうせ店をやるならもっとシャレオツな店がいいわよ、父さん!と思うこともあったかもしれない。お腹がいっぱいになった。今ボキらは身も心も遠い南の島人になった。
エピローグ

「東京で働き始めたばっかりの頃、こんなの夢に描いてた人生じゃないって思って、ぜんぶやめて実家大阪に帰ろうと思ったんだ。そうオカンに電話したらオカンは、『お母さんは、あんたのやることを全部信じてるから、思ったようにしたらええねんで』って言った。その瞬間、目の前にあった柵がいっぺんに取っ払われたような気分になったんだ」。「置かれた場所で咲け」、とは真逆に聞こえてきっと同じことを彼女のオカンは言ったのだ。彼女は以来、実家に戻ることなく東京の、柵のない置かれた場所でそれなりに愉快に生きている。 柵はじぶんが脳内で勝手につくるものだ。おとなのコンビニ角打ちも、“怖いが旨い”立飲みも、沖縄一家も着地した場所でおのおのそれらしく咲いている。それもバリアフリーで。